皆既月食があったそうです。
「そうです」というのは、その日は私が早くに寝てしまって月食そのものを見る機会がなかったからです(汗)。
月食、日食をはるか昔理科の時間に習ったとき、非常な違和感がありました。先生が黒板に書いてくださった図(月と太陽の間に地球が入ったり、地球と太陽との間に月が入ったりという、例の図です)まで正確に思い出せるのにも関わらず、その説明から、
「生活実感」
というものが沸いてこないことへの違和感だったと思います。
地球と太陽との距離は一億五千万キロで、この距離のことを「1天文単位」というのだということまで教わったはずなのですが、「一億五千万キロ」って、実際どの位の距離なのでしょう。
確かに数字としては存在します。ですが私たちの生活の中で問題になるような距離とは、基本的にかけ離れているということは間違いありません。
想像や空想の幅(少なくとも小学生だった私の)をはるかに超えたこの距離の間に、
「影が映る」
というようなきわめて、
「日常生活的」
な表現が果たしてそのまま使えるのだろうか、と、私には思えたのでした。
それはその後、ある雑誌の記事でますます強くなった思いでした。
当時『科学』という雑誌があり、なぜだか知りませんが、私はそれを小学校くらいから読んでいました。おそらく父親がどこからか手に入れたものだったと思います。普通の書店では見かけない雑誌で、なんとなく「その辺の雑誌とは違う」というようなイメージがありました。
あるときその雑誌の特集で「太陽系を実感する」というようなタイトルのものがありました。中学校の校庭を太陽系に見立てて、そこに同じ縮約で太陽やら地球やらを置いたらどうなるか、という内容の記事でした。
見開きいっぱいの写真が載せてあり、そこの中心に「太陽」がおかれ、あとは配列順に星が置かれているはずでした。
私が驚愕したことに、「太陽」は、なんと、かなり大きな校庭の真ん中におかれた「林檎」一つだったのです。「太陽」がそれですから、他の惑星(地球を含めて)は推して知るべし。太陽系で一番小さな「水星」などは、米粒のそのまた十分の一程度しかありません。
巨大な校庭の真ん中に置かれた林檎、そこから何十メートルも離れた場所に置かれた「ひとかけらの米粒」や「ピンの頭」、その間には何も存在しない虚無的な空間、
「これが太陽系っていうものなのか・・・」
まさにこのことでした。
ではこの星と星の間には何があるのか・・・、当時の理科の先生に聞いても、
「まぁ、ガスとか星屑とかいろいろだなぁ」
と言われるだけで、本当のことは教えてもらえませんでした(教えても分からないと思ったのかもしれませんが・・・汗)。
この写真を見てから、私の先ほどの(影が映るというような日常生活的な感覚が宇宙空間に持ち込まれることへの)違和感は、ますます強いものとなったように覚えています。
結局その違和感は大学に入るまで解消しませんでした。それが一応頭の中でなんとなく納得できるように落ち着いたのは、大学での「自然科学史」で教わった「ニュートン力学」のおかげでした。
その「自然科学史」はとても面白い講義で、私が「理論史」というものに興味を持ったのはこの講座のお陰です。
「ニュートン力学」によって完成された「古典力学」が、アインシュタインの「相対性理論」によって大きく修正され、それがまた「場の理論」によって修正を加えられて現在に至るという、大きく言えば「人間の知性の歴史」のような内容の講義には、本当にわくわくし、次回の講義が待ち遠しかったことを思い出します(当初受講登録していた200人の学生が、最後には20人になってしまったので、もしかしたら面白がっていたのでは私だけだったかもしれません・笑)。
私が大学での一般教養科目を重視するのはこんな個人的な体験があるからです。
今の世の中は「専門家」の時代です。
特に医師・獣医師は専門家の中でも特に専門性の高い職業ですから、入学当初よりいろいろな専門科目を履修させられるのは
「当然のこと」
かもしれませんし、学生もそれを求めると思います。
でも、人間には、単純な専門性だけでは解決のできない、
「生き方の幅」
というものがあることもまた事実ではないでしょうか。
私が医進塾の生徒たちに、
「理科系の君たちこそ、きちんと文学を読んでおきなさい」
と勧めるのは、こんな理由からです。
今は無理かもしれません。でも合格したら、ぜひ入学までの時間を、自分の人間としての幅を広げるために使ってもらいたいと思います。
理科系の方が、自分の専門知識以外に、
「この作家のこの作品は、いいですねぇ」
などと言えたら素敵ではありませんか(笑)。
月食からいろいろなことを考えた一日でした。