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2012年6月1日金曜日

あのころのこと④

ずっと以前のことですが、今までの自分の勉強の軌跡について書いたことがありました。その総まとめの部分を、理由はわかりませんがアップするのを忘れて「下書き」のファイルにしまいっ放しになっていたようです(汗)。


いまさらとは思いますが、せっかく書いたものでもあるし、最後まで書かないと記録の意味もなさないので、一応載せてみます。

興味のない方もおられると思いますので、そのような方はどうぞ読み飛ばしてください。

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青山学院、国際基督教大学で、それぞれ英語学、言語学、心理学、キリスト教思想史を学んだ私は、一つの「壁」に突き当たりました。

英語学も、言語学も、そして心理学も、人間を、いわば「外から」見る学問です。外から見るだけで何が分かるのだろうか、という疑問がその「壁」でした。

もっと人間存在の基本構造、根源的ない意味づけを理解することは出来ないのだろうか

こう思った私は、改めて自分の「存在」そのものを問う「哲学」と、そしてそれをもう一段階高いところから鳥瞰・俯瞰できるような「神学」を勉強してみたくなって行ったのだと思います。

(ICUのY先生の「キリスト教思想史」を受講したのはそのためでした。Y先生の授業は思想史というよりも「存在論」の特徴を時代の進展にあわせてご自分の見方で解説してゆくというものでした。そこで学んだ「フロント構造」という考え方は、後々まで私のものの考え方に影響を与えるものとなりました。)

別にそれから学位をとったり論文を書いたりというつもりはなく、それまで真正面から勉強したことのあまりない分野にコミットすることで、それまでの自分の勉強を集大成できるような「場」が欲しかったということなのではないか、と、今にして思います。



最近はかなり状況が違っていると思いますが、私が三つ目の大学として選んだ上智大学には当時はまだまだたくさんの外国人司祭(神父)がおり、私が足掛け3年間で取った科目の指導教官も、その殆どが、ざっと思い出してみても、スペイン人、ドイツ人、アメリカ人、フランス人と、多彩な国籍の方々ばかりでした。

中世思想研究所のある四谷キャンパス
石神井のイエズス会修道院。この奥に典礼研究所がありました。
反対側から見たところ。今はこの左側にロヨラ・ハウスがあります。

多彩な教授陣に、これも多彩な教科、分野を教えていただきました。いまはもうほとんどの方が亡くなってしまわれています。先日たまたま昔の先生とお目にかかってお話しをする機会がありました。

私が在学した当時とはずいぶんキャンパスの雰囲気も大学生の質も変わってしまったといわれました。同じことはICUの後輩にも言われました。全て人間の組織が潜ってこなければならない時代との軋轢ということなのでしょう。

典礼研究所で何度か親しく教えを受けたT神父や、哲学の奥深さを教わったR神父、D神父のことを本当に懐かしく思い出します。

私が上智大学で学んだことの中で一番重要な事柄は、

自分にとって本当に大事な問題は、他人から教わるのではなく自分で答えを見つけるべきものだ

ということでした。

確かに哲学も神学も、もう他人から教わってどうこうするというような段階はいろいろな意味で過ぎていたのだと思います。

先生方との授業も、そのほとんどが集団授業に参加するということよりは、先生方の空いている時間に研究室にお邪魔して1時間程度の話し合いをするというようなものになりました。

そこでそれらの先生方から強くアドバイスされたことが上記のことだったのです。

それまで私は職業を持ちながら半分学生のような生活を続けてきていました。仕事では決して手を抜かないこと!を信条にしていたのため、職場と学校(大学)との二足のわらじは決して楽ではありませんでした。試験の前など、数日間も徹夜が続いたり、職場での仕事が長引きふらふらになって大学に駆け込んだこともありました。不思議と授業で寝たりということはありませんでしたが、同じ教室で学んでいる他の「一般の学生諸君」との「意識の差」は、否応なく感じざるを得ませんでした。

私が最終的に「教壇勉強」に別れを告げ、自分が自分の目的意識と自分だけの問題意識で自分なりに勉強を続けようとしたのが丁度35歳のときでした。思えば長い「学生時代」ではありました(笑)。

でも私にとって先ほど書いた先生からの言葉は、今にして思うとまさに「天啓」だったと感じるのです。

私が最後の大学のICUで知り合ったA君という人がいます。彼は私よりも年上でした。本当はICUの学生ではなかったのですが、なんとなく面白い授業があるからというのでもぐりこんできていた人でした(昔はこういう「もぐり学生」が結構いたのです。大学も案外寛容で、知ってか知らずか特に問題になったことはありませんでした)。

本職は都立高校(定時制)の先生で、昼間暇だから大学生をやっているというのでした。そのときは確か国立大学に籍があったと聞いた覚えがあります。

彼は「学生生活」が好きで、

「できれば一生こんな生活をしていたい」

と言っていました。実際に出た大学も学部だけで4つとか言っていたのを覚えています。特に決まった専攻があるわけではなく、そのときそのときで

「受かったところに入る」

と決めていたようでした。それ以外にももちろん前述したようにあちこちの大学にもぐりで行っていたわけですから、まさに「プロの学生」(笑)だったのかも知れませんね。

でも私はA君と知り合いになり、少しだけ話をし、

「こうはなりたくない、いや絶対にならないぞ!」

と心に誓ったのです。何故かというと、A君と話していると彼の話の中に全くと言ってよいほど、

「人間そのものへの問題意識」

を感じなかったからです。

彼にとっての「大学」とは、一種の「遊技場」でした。そこで知り合った人たちと楽しく過ごし、学問の入り口程度の話しをいろいろと出来ればそれでよし、それ以上は望まない、というのが彼の基本的な態度でした。

私は彼の生き方、考え方を知ったとき「高等遊民」(旧い言い方です・笑)という言葉を思い出しました。漱石の時代の言葉です。

このような生活には、少なくとも私が求めていたような意味はない、このまま私が今と同じような生活を続けていたら、A君と同類になる危険性がある、それは避けなければならない、というようなことを漠然と感じていた私に、決定的な方向付けをしてくれたのが、前述した先生方からの強いアドバイスだったというわけです。

私はそれから自分の仕事の中で様々な試行錯誤を繰り返し、教育の場にあり続けながら今まで大学で学んだことをいろいろな意味で発展させる試みを続けてきました。

純粋に英語そのものを教える授業を、英語を使ってプラスアルファのことをする授業へとどうレベルアップさせるか、授業そのものを生徒が「考える」機会にするにはどうするかを考え続けました。

ディベートやディスカッションを取り入れ、プレゼンテーションという概念・訓練を導入し、AO機器を駆使、インターネットを取り入れ、最終的には今までの『授業』の概念そのものを発展的に解消・改革するような「ハークネスメソッド」(これについてはいつかお話することもあるかもしれません)に行き着きました。

そのときは気づきませんでしたが、それら全てに私がかつていろいろな大学で学んだことのすべてが生かされているように、今になって思います。

医進塾での私の仕事は管理と運営なので、そのような授業が必ずしもできるわけではありませんが、将来また何かの機会があれば、そんな形で生徒と接してみるのも楽しいだろうな、と思う最近です。








2011年10月1日土曜日

あのころのこと③

青山学院大学・大学院でM先生から学んだことは、それ以後の私の生き方そのものに大きな影響を与えました。

大学院を出て、千代田区のS学園という高校で働き出した後も、自分は常に「何かに向けて勉強をしていないと生きて行けないタイプなのだ」という思いが、頭と心の隅から離れなかったのも、M先生の謦咳に触れることで、学問にかける勉学の毎日とはどのようなものであるかを知っていたからかもしれません。

また、社会人としてのS学園高校での生活は、それまで大学・大学院で勉強という場しか知らなかった私に新しい目を開かせてくれました。

何よりも、そこには生身の「生徒」がおり、生きた交流がありました。先生方との一般社会人としての交流も大きな刺激でした。

その中で私の頭の中には、今までの「英語・言語・思想・哲学」で理解できる以外の「生の人間」をどうすれば知れるかという大きな疑問がわいてきていたのでした。



たまたまS学園高校の次の職場が、比較的日中の時間を取りやすい高校だったので、それを利用して自宅のそばにあった国際基督教大学で心理学を勉強してみようと思い立ちました。そしてそこで出会ったのが、臨床心理学のK先生、TR先生、発達心理学のH先生、大脳生理学のHR先生、それに現役のドクターとして活躍中だった精神科医のI先生でした。


まだお若かったK先生からは「臨床家であるとはどういうことか」を、理論・実践の二方面にわたって詳しく教わりましたし、TR先生からはまるで「孫がおじいさんから何かを教わる」ようなやりかたで、心理学の本質と限界、それに応用を学びました。

H先生、HR先生からは心理実験のABCから応用までのすべてを教わり、自分が被験者となって行ったさまざまな実験の結果を、第三者の目で分析することを通して「自分」という存在を客観的に見る訓練を受けました。

これらすべてが今の私を作り上げていることは間違いありません。



青山学院で教わったM先生は(学問対象による差かもしれませんが)、完全に大学という「象牙の塔」の中の方でした。

それに対して国際基督教大学で学んだ先生方は、常に「生身の人間」とどう触れ合うかを考えている方々でした。

これはどちらがよいとか悪いとかの問題ではなく、人間というものに対するアプローチの違いからくるものなのであると言えるでしょう。


ICUでは在学した3年間の最後に新約聖書学の権威であるY先生の授業を取るようになりました。心理学研究室にいた友人の多くは、私がそのような分野に興味を持つことに驚きを隠しませんでしたが、私にとってはごく当然の推移でもありました。

青学のM先生によって開かれた「英語学」という学問への新しい目が、実際の人間との接点を勉強する「心理学」との出会いによってふくらみを得、改めて自分の目の前にいる「生徒」との関わりを深く再考するきっかけを得ることができたということだと、今にして思い当たります。

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ここまででお付き合いいただいたことに感謝いたします。

長々と書いてきましたが、私の書きたかったことは「師との出会いの大切さ」ということに尽きます。
抽象的に言っても説得力がないと思い、恥ずかしながら自分の例を出しました。言いたかったことは私のことではなく、塾生一人ひとりのことでした。

医進塾の先生方と塾生との関係は、おそらく一生のものになるでしょう。

私が塾生に医進の先生方から学んでもらいたいことは、何よりも、

「勉強を通じて自分を高めるには、どうすればよいか」

ということなのです。

医進の先生方は、実力はもちろんのこと、皆さん大変にまじめで熱心な方です。そういう先生方から、単に「受験の知識だけ」を学ぶのは勿体ないことです。

塾生の皆さんには、単なる知識の伝達を超えた「人間の生き方」という点において、先生方から影響を受けてもらいたいものだと思います。

大学に入る前に「尊敬できる師」との関係を体得した人は、きっと大学で普通以上に大きな華を開かせることだろうと、私は確信しています。






2011年9月30日金曜日

あのころのこと②

3年次のゼミで「英語学演習」を指導してくださったM先生は、当時「日本で知らない人はいない」といわれたほど優秀で実力のある方でした。

「日本における英語学のレベルを、イギリス本国並みに引き上げた」といわれた先生でもありました。イギリスの大学と提携して、当時ロンドンにあったEarly English Text Society(略してEETS)から英文学の古写本をファクシミリで直接手に入れるようなシステムを作ったのもM先生でした。

「人間の言葉と文化の研究は言語事象を歴史的に見なければ絶対にわからない」という立場のM先生は、アメリカを中心に当時大はやりだった「変形生成文法」を、一切信用していませんでした。

M先生から学んだことは、

①言語事実をしっかりと見つめること
②いたずらに理論に走らないこと
③言葉に関係のあるすべての分野を研究の対象にすること

の三つだったと思います。

①は、辞書編纂のお手伝いをさせていただくことで徹底的にしごかれました。「明確・明瞭・簡潔に、かつ厳密に」という、辞書に要求される二律背反の原則を、何とかしてこなそうとしている編纂スタッフの方々の日々の血のにじむような努力を目の当たりにできたことは、まだ若かった私にとって本当に勉強になりました。

「辞書編纂のような細かいお仕事をしていると、視力が落ちるのではありませんか」

という私の愚かな質問に、

「外山くん、辞書一冊作ると昔は『人が一人死ぬ』といわれたものなんだよ」

といわれたときのことを覚えています。

②は変形生成文法に対する強烈な批判だったと思います。「理論・規則を作ってから、それに合う言語事実を探すなどというとんでもないことをしてはならない」というのがM先生の口癖でした。

また

「自分の理論ですべてが説明できるというような学説は、それだけで信用に値しないということを覚えておきなさい」

といわれたこともはっきり記憶に残っています。

言葉についてのすべての分野(文法、文体、語彙、発音、その他)だけでなく、文学、哲学、歴史、思想、場合によれば自然科学の分野に至るまでのM先生の博識に触れることで、③は自然に身につきました。

「自分の専門は○○です」

などといえないくらい、いろいろな分野について興味をもって勉強することで初めて自分なりのものの考え方を打ち立てられるのだ、というM先生の考え方は、専門家を気取りがちな中途半端な大学学部生であった私にとって本当に大きな「衝撃」でした。

アメリカやイギリスの大学に招かれて比較文学や比較言語学の講義をすることができるほどの博識であり、かつPolyglot(多言語話者)でもあったM先生に、

「先生は何ヶ国語くらいおできになるのですか」

と聞いたことがあります。

「20ヶ国語くらい勉強したけれど、本当にやったといえるのは英語だけですね」

という謙虚なお答えをいただき、その英語すらまともに勉強していない私は恥ずかしさで赤くなったことも、今となっては懐かしい思い出です。

書いたように、M先生は本当に厳しい方でした。
でもその「厳しさ」こそが、私を4年間支えてくれたことも事実なのです。

足元も覚束ない沼地を歩くような英文科の4年間を、何とか卒業までたどりつき、その後、大学院で英語学をM先生に2年間みっちり教えていただくところまで行ったのも、

「少なくともM先生のところには『何か』がある」

ということを、当時の私が未熟ながらも感じ取れていたからだと思います。

自分の興味の変遷から、最終的に私はM先生の研究室を離れ、その後国際基督教大学(ICU)で心理学と西洋思想史を勉強することになります。

今思ってみても、あの時M先生に接していなければ、今の私は存在しないということだけは確かだと思います。

ICUではまた別の意味で大きな影響を与えられたK先生、H先生、HR先生に出会うことになります。

(続く)

2011年9月29日木曜日

あのころのこと①

私が最初に入った大学は青山学院大学です。学部は英文科でした。1974年の入学になります。なんと、もう37年前のことです。今の医進の生徒は誰も生まれていなかったころです。

世界中の大学を荒らしまわった学園紛争の嵐が静まりかけていたときでしたが、それでも私が入ったときの青山キャンパスには、あちこちにバリケード封鎖の跡が残り、国道246側から銀杏並木に入った突き当たりの「間島記念館」(当時はあそこが図書館でした)の左側には、女子短大の方に行けないよう、よく工事現場を囲んでいる鉄の板のようなものが張り巡らされていました。

なんとなく雑然とした風景の中で一年生の授業が始まったことを覚えています。



英文科(正式には英米文学科といいました)にいましたので、最初の一年間は「基礎演習」という名のプレゼミ以外は一般教養でした。

高校で習ったこと+αでしたから、それほど面白くはありませんでしたが、それでもたとえば「法学概論」や「自然科学概論」、「哲学入門」「大学論」などには大変に興味を引かれたことを覚えています。いかにも「大学らしい」授業に聞こえたからかもしれませんね(笑)。

そのくせ英語・英文学を専攻したにも関わらず、その関係の科目には全然興味を惹かれないことに、自分で情けなさを感じていました。



まだ若い盛りでしたので(笑)、文学的なものの言い方、表現の仕方には不必要な迂遠さを感じましたし、もっとダイレクトに対象物に切り込んでいってよいのだろうに、という思いは終始頭を離れませんでした。

専攻が「国文学」ならばまだよかったのでしょうが、何しろ選んだのが「英語」という外国語です。大学生程度の段階ではどう転んでも、逆立ちしてもnative speakerにはかないません。一般的コミュニケーション力では到底かなわないにせよ、たとえば「論理」や理屈で向き合えればよかったのでしょうが、そのような基礎訓練も受けていない大学学部生ですから、結局母国語話者にはすべての点で後れを取ることになります。

これは本当に

「たまらない」

ものでした。



せっかく大学に入ったのに、自分で自信を持って表現できることが何もない、すべて他人の受け売りになる(実際はそうでもなかったのでしょうが、気持ちの上ではそうでした)ような状態は、精神安定上きわめて「よろしくない状態」だったと思います。

私が英語のdebateに興味を持ったのも、たぶんそんなところが理由だったのでしょう。そのおかげで議論には負けなくなりましたが、議論に負けないということがコミュニケーションの障害になることもあるということを、後から(社会人になってから)いやというほど知ることにもなりました。



いずれにせよ私にとっての学部の4年間は、学問研究という点からいうとはなはだ殺伐としたもので(傍目にどう見えていたかはわかりませんが)、自分の内部に常に満たされないものをず~っと抱え込んで、足元も覚束ない道筋に気をつけながら、しかも濃い霧の中を進んで行く状態だったと言えばよいと思います。

そこに持ってきて自分の「行き先・目的地」さえはっきりしていないのですから、なお悪いともいえます。

「いったい自分はなんで英文科などに入ってしまったのだろう」

と、本気で考え続けた4年間でした。

そんな状態から私を救い、明確な学問・勉強というものについて教えてくださったのが、大学3年生の時に出会ったM先生だったのです。



(続く)

2011年2月4日金曜日

節分と豆まき・「合格しマス」(笑)

一昨日早稲田ゼミナールでは「節分」の豆まきをおこないました。

その時撒いた豆に「合格卵」を載せて「合格しマス」の枡に入れます。
「ゲンかつぎ」と言えばそれまでですが、学生にはなかなかに好評のようです。

「合格しマス」の中の豆と合格たまごです。
早稲田ゼミナールの「節分」と「豆まき」、それに「合格たまご」には逸話があります。

予備校早稲田ゼミナールが開校したのは昭和28年、1953年のことです。
当時は日本国中、戦争の傷がまだ完全に癒えてはいない時期でした。

池田首相の掛け声「所得倍増!もう戦後ではない!」に鼓舞された日本経済が、高度成長期に入るのが1960年あたりからです。

その直前、まだまだ日本が貧しい時代でした。

向学心に燃えて早稲田ゼミナールで熱心に学ぶ若者たちの中にも、一日一度の食事すら満足にとれないものが何人もいたそうです。

初代理事長の小山敬吾先生はその状態に大変に心を痛めました。そして、せめて「たまご」くらいは皆に食べてもらい、栄養をつけて勉強に励ませてやりたいと願ったのが、この「合格たまご」の始まりだったのです。

同時にそれは合格を邪魔する「鬼」を退治し、万全の気持ちで入試に向かおうという「豆まき」の行事につながりました。

爾来58年間、早稲田ゼミナールでは年毎に営々とこの行事を続けています。

以前書いたことのある「出陣式」にしても、この「節分・豆まき・合格たまご」にしても、「ずいぶんと時代がかかったことをやるなぁ」と思われる人も、中にはいるのではないでしょうか?

でも、私たちはそれでよいと思っています。

本物は本物として時代を超えて残ります。向学心に燃え、熱心に勉強する若者に対して、できる限りの援助をしたいという私たちの気持ちは、この先も変わることがありません。

その表れの一部としての「節分・豆まき・合格たまご」です。

今の若者には遠い昔の話しでしょう。

でも、貧しさの中でへこたれず、明日を夢見て今に全力を尽くすことで、日本人は今日の日本を築いてきました。先輩方のこの気持ちだけは忘れてはならない、私はそう思います。

そしてその思いを一番ストレートに感じることができるのが、自分の行きたい大学への入学のために全身全霊で勉強に打ち込んでいる、今も昔も変わらない「受験生」なのだということも私は確信しています。

そんな彼ら、彼女らを支援し、援助することが私に与えられた職務なのです。これはただの「職」の枠を超えた「神聖」な仕事ですらあると思います。

私が今の仕事を(つらいと思うことがないとは言えないにせよ)辞める気になれないのは、そんな理由からなのだと言ったら、格好つけすぎになるでしょうか・・・。












2011年1月17日月曜日

16年前・・・

16年前の昨日、私は関西国際空港である友人と別れました。

国際教育学会の関連仕事でフィリピンに行き、関空経由で羽田まで帰ってきた、その帰途でした。
その友人にはフィリピン滞在中世話になりっぱなしでした。

フィリピンは二度目でしたが、前回(その4年前)とは違って半ば公の仕事でしたので、諸事万端に気を使うことが多く、その友人の援助なしには仕事がうまくいかなかったのです。

彼は関西が地元で、頻繁に東京に出てきて仕事をしている人でした。

東京の我が家についた翌日(つまり16年前の今日)朝一番で、私は無事の帰宅とフィリピン滞在中のお礼をかねて彼の自宅(芦屋市内)に電話をしました。

ところが、いつもは問題なくつながるはずの電話がまったく通じないのです。
その前後から、関西のほうでとんでもないことが起こったようだ、というニュースがどんどん入ってくるようになりました。

阪神・淡路大震災でした。

祈るような思いで知り合いのすべてに電話しましたが、結局どこにも誰にも通じず、彼の身の上になにかがあったことは確実でした。

数日を経ずしてこの未曾有の大震災の被害がいろいろなところから私たちの目に触れるようになりました。その惨状を見て、私たちはみな声を失いました。

人間の作りあげた文明だの文化だのが、これほどまでにもろいものであったのか、このことでした。

関空で分かれた友人とは、ほぼ二週間後に連絡が取れ、自宅はめちゃくちゃになったけれど、不幸中の幸いに、ご家族が無事であったということを知りました。彼の家族は無事でしたが、ご近所の方で亡くなった方がたくさんいたそうです。

彼と彼の家族の無事の知らせと同時に、私は阪神地区全体で6000人以上もの方が犠牲になったことも知ったのでした。

私がその友人のことを考えて、心配してあちこちに電話をかけていたとき、まさにその時間に、6000人もの方々が、その電話の向こう側で尊い命をなくされていたのです。

私はそのことを思うたびに、人間の命のはかなさと、私たちを取り巻く社会、そしてそれらを包み込んでいる「運命・宿命」というものを思います。

関空で分かれる前に、その友人から「めったに会えないのだから、チケットを変更して僕の自宅に遊びにこないか」と、かなり強く誘われていたのです。もしその誘いに乗っていたら・・・。

なくなられた6000人の方々の一人が私であったかもしれません。

生かされた命、これをこれからどう使うか、私を超えた大きな存在から私は問いかけられたような気持ちです。

2011年1月14日金曜日

坂の上の雲

『坂の上の雲』の主題歌、Stand aloneの歌詞です。
明日から試験を受ける医進の皆さんのために書かれたようですね。

小さな光が 歩んだ道を照らす
希望のつぼみが 遠くを見つめていた
迷い悩むほど 人は強さを掴むから 夢を見る
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し

あなたと歩んだ あの日の道を探す
一人の祈りが 心をつないでゆく
空に 手を広げ 降注ぐ光集めて
友に 届けと放てば 夢叶う
はてなき想いを 明日の風に乗せて

私は信じる 新たな時がめぐる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し

2011年1月10日月曜日

星霜移り人は変われど…

ついさっき寒いところからもどって来ました(笑)。

帰りの新幹線で「来月の今頃は、もう医進のみんなと会えなくなっているのだろうな」と思い、夕闇迫る外の景色をみながら感傷的になってしまいました(笑)。

思えば私の仕事は毎年同じことことの繰り返しなのですね。
今日のブログも以前の投稿に若干の修正をしたものです。ちょっと季節は早いのですが、ご勘弁ください。

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昨日は桜が満開でした。

私の自宅の傍には、桜で有名な公園があります。好天に恵まれ一日大賑わいでした。

私の二つ目の母校であるICUにも大変に有名な桜並木があります。「滑走路」という名前のメインストリート(戦争中は中島飛行機という会社が実際にゼロ戦などを飛ばしていたといううわさがあります・(笑))がそれです。

三つ目の母校である上智大学の正門前の土手にも桜が見事にし咲いていました。

そのくせ、最初の母校の青山学院には桜並木らしきものがありませんでした(あったのかもしれませんが、忘れてしまいました)。青学はやはり「つたのからまるチャペル」と「イチョウ並木」ですね。

私が今いる早稲田ゼミナールには小さな中庭があり、そこには大きなくすのきがあります。

私の母校や早稲田ゼミだけでなく、学校と言う場に樹木は欠かせないようです。上智に行っても、ICUに行っても、青山学院に行っても、同じく思うのは「自分がここにいたとき、ここで勉強していたとき、この木もここにあった」ということです。私だけでなく、皆がきっと同じことを思うからでしょう。

早稲田ゼミのくすのきは、これから先どれだけ多くの卒業生を見送るのでしょう。その卒業生がいつかここに戻ってきたとき、どんな思いでこのくすのきを見上げることでしょう。

自分がここで勉強をしていた、そのはるか前からここにあり、おそらくは自分がこの世にいなくなってからもここに立ち尽くすであろう、この大きな木に、人は「永遠」を見るのだ、と言ったらいささかロマンティックに過ぎるでしょうか。

「星霜移り人は変わる。だがこの世の中で変わらないもの、それはひたすらに真理を求めて勉強に打ち込む君たち青年のすがすがしい姿だ。私はそのためにここにいる!」と、早稲田ゼミナールの今はなき名物講師、志賀武男先生から励まされたのがつい昨日のことのように思い出されます。

医進塾の新入生諸君も、きっといつか立派な医師、獣医師となってここに戻ってきたとき、合格目指してひたすらに自分を鍛え上げていた若き日のことを思い、このくすのきを見上げるに違いありません。そしてその時、かつての苦しかった一年を、自分の一生で「一番長く、一番短かった一年、そして一番素晴らしかった一年」として思い起こすでしょう。

もちろんそのころには、私はこの世にはいないでしょうが(笑)。

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この時期は私たちににとって最も緊張し、気持ちが張り詰める時期です。塾生の代わりに試験を受けてやりたいと、どの先生方も思っていることでしょう。

でもそれはできないことです。

塾生人は一人で試験場に行き、一人で問題に向き合わねばなりません。

でも彼らは一人ではない。今の自分は未来の自分につながっており、未来の自分は数え来れないほどの患者さん、動物とそれを取り巻く人々につながっているからです。

その思いを持てた時に、塾生たちは本当の意味で「医師」「獣医師」として自立する第一歩を踏み出したことになるのだと、私は確信しています。

2008年2月20日水曜日

(続)志賀先生の英語

堂々たる体躯の志賀先生は、発音こそめちゃくちゃでしたが(笑)-openは「オーペン」、particularは「パッチキュラー」、doorは「ド~ル」と言った具合でした-文章読解については非常に厳しく、正確な日本語にできないと、それは叱られたものでした。

志賀先生には一種のカリスマ的な「志賀哲学の伝道者」の趣がありました。授業の合間に「志賀自然(じねん)哲学」の一端を披露されたことが忘れられません。

それは体系的哲学というよりはむしろ、志賀先生が独学で英語を学ばれてきた過程で身につけた、一種の「直感的世界観」とでもいうべきものだったと思います。

「あ~、ちみたち、早稲田ゼミナール入学おめでとう! ここに来たおかげで志賀先生の授業が受けられることになって、本当~によかったね。ちみたちは、バカなんだから、ここにいるんだね。でも志賀先生の授業を一年間聞けば、きっと頭が良くなって来年は第一志望合格間違いなしだからね!」

今だったら「差別用語ですよ!」といわれかねない言葉を連発しながら、あの独特のアクセントの日本語で受講生に語りかけます。書き言葉では再現できないのがとても残念です。

政治の季節といわれ、逆にしらけ世代などといわれた1970年代の若者全てに対して、一歩も退くことなく、真剣に対峙し、本気で自分の哲学をつたえようとしたところに、私たちは他では知ることのできない「熱い情熱」を感じていました。

それが当時の「早稲田ゼミナール」の雰囲気だったのです。

その本質は今でも全く変わっていないと私は改めて思います。

2008年2月19日火曜日

志賀先生の英語

早稲田ゼミナールといえば、あの当時は「私立文系の雄:早稲田に行きたければ早ゼミに行け!」が合言葉のようなものでした。実際に私の周りにも早大生は沢山おりました。半分以上・・・実感としては8割以上が早稲田ゼミナールの出身でした。

総合コースの受講生もいれば単科コースをとっただけの友人もおりましたが、中でも「志賀単科ゼミ」の 評判はものすごいものでした。

志賀先生という方を一言で言う語彙を私は持っておりません(笑)。ただ「自信のかたまり」のようだったということはいえると思います。確か学歴的には中学校しか出ていなかったと聞いております。独力で英語の勉強を続け、高等文官試験(今でいう国家公務員上級試験)に優秀な成績で合格されたということでした。

戦後GHQの関係で仕事をされたこともあると聞いています。

彼の英語はただただ「難しい!」に尽きました。たった5行程度の文章を和訳するのに5時間もかけたことを覚えています。速読だのスキャニングだの、シャドーイングだのとは無縁の英語でした。

37年前のこと・・・

はるか遠い昔のことになりますが(笑)、私が最初に「早稲田ゼミナール」のことを知ったのは、高校2年生のときでした。誰から聞いたのかは忘れましたが、当時教えておられた志賀武男先生、小野嘉寿男先生、奥幸男先生の授業がものすごいものだ(笑)といううわさが、なんとなく流れてきたのでした。

当時(1970年代)はようやく学園紛争の勢いも衰え、大学が静かになりつつあるところでしたが、都内の私立大学の一部ではまだまだ学生政治団体が幅をきかせ、早稲田大学や法政大学などでは「入ったのはよいが、入学からまる半年間、何の授業もされない」というようなことがあったそうです。

都立高も例外ではなく、都立青山高校で高校生が学校を占拠し、授業をボイコットして何週間も学校内に立てこもるというようなことまであった時代でした。

大学、高校を問わずなんとなく世間が騒然としていて、大學生も高校生も何か政治的な意見を持たないと「ノンポリ」(笑)と言われて肩身の狭い思いをするような時代でもありました。高校どころか都内のある中学校で、社会科のある教師が「君の支持政党はどこか」というようなアンケートをとったとか取ろうとしたとかが、新聞紙上を賑わせているような時代でもありました。

そんな、誰もかもが政治的でなければ人間ではないと思われた「政治の季節」にあって、そんなこととは一切関係なく、堂々と自信に満ちた授業を展開していたのが、上記の先生方だったのです。