2011年10月1日土曜日

あのころのこと③

青山学院大学・大学院でM先生から学んだことは、それ以後の私の生き方そのものに大きな影響を与えました。

大学院を出て、千代田区のS学園という高校で働き出した後も、自分は常に「何かに向けて勉強をしていないと生きて行けないタイプなのだ」という思いが、頭と心の隅から離れなかったのも、M先生の謦咳に触れることで、学問にかける勉学の毎日とはどのようなものであるかを知っていたからかもしれません。

また、社会人としてのS学園高校での生活は、それまで大学・大学院で勉強という場しか知らなかった私に新しい目を開かせてくれました。

何よりも、そこには生身の「生徒」がおり、生きた交流がありました。先生方との一般社会人としての交流も大きな刺激でした。

その中で私の頭の中には、今までの「英語・言語・思想・哲学」で理解できる以外の「生の人間」をどうすれば知れるかという大きな疑問がわいてきていたのでした。



たまたまS学園高校の次の職場が、比較的日中の時間を取りやすい高校だったので、それを利用して自宅のそばにあった国際基督教大学で心理学を勉強してみようと思い立ちました。そしてそこで出会ったのが、臨床心理学のK先生、TR先生、発達心理学のH先生、大脳生理学のHR先生、それに現役のドクターとして活躍中だった精神科医のI先生でした。


まだお若かったK先生からは「臨床家であるとはどういうことか」を、理論・実践の二方面にわたって詳しく教わりましたし、TR先生からはまるで「孫がおじいさんから何かを教わる」ようなやりかたで、心理学の本質と限界、それに応用を学びました。

H先生、HR先生からは心理実験のABCから応用までのすべてを教わり、自分が被験者となって行ったさまざまな実験の結果を、第三者の目で分析することを通して「自分」という存在を客観的に見る訓練を受けました。

これらすべてが今の私を作り上げていることは間違いありません。



青山学院で教わったM先生は(学問対象による差かもしれませんが)、完全に大学という「象牙の塔」の中の方でした。

それに対して国際基督教大学で学んだ先生方は、常に「生身の人間」とどう触れ合うかを考えている方々でした。

これはどちらがよいとか悪いとかの問題ではなく、人間というものに対するアプローチの違いからくるものなのであると言えるでしょう。


ICUでは在学した3年間の最後に新約聖書学の権威であるY先生の授業を取るようになりました。心理学研究室にいた友人の多くは、私がそのような分野に興味を持つことに驚きを隠しませんでしたが、私にとってはごく当然の推移でもありました。

青学のM先生によって開かれた「英語学」という学問への新しい目が、実際の人間との接点を勉強する「心理学」との出会いによってふくらみを得、改めて自分の目の前にいる「生徒」との関わりを深く再考するきっかけを得ることができたということだと、今にして思い当たります。

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ここまででお付き合いいただいたことに感謝いたします。

長々と書いてきましたが、私の書きたかったことは「師との出会いの大切さ」ということに尽きます。
抽象的に言っても説得力がないと思い、恥ずかしながら自分の例を出しました。言いたかったことは私のことではなく、塾生一人ひとりのことでした。

医進塾の先生方と塾生との関係は、おそらく一生のものになるでしょう。

私が塾生に医進の先生方から学んでもらいたいことは、何よりも、

「勉強を通じて自分を高めるには、どうすればよいか」

ということなのです。

医進の先生方は、実力はもちろんのこと、皆さん大変にまじめで熱心な方です。そういう先生方から、単に「受験の知識だけ」を学ぶのは勿体ないことです。

塾生の皆さんには、単なる知識の伝達を超えた「人間の生き方」という点において、先生方から影響を受けてもらいたいものだと思います。

大学に入る前に「尊敬できる師」との関係を体得した人は、きっと大学で普通以上に大きな華を開かせることだろうと、私は確信しています。