2011年9月29日木曜日

あのころのこと①

私が最初に入った大学は青山学院大学です。学部は英文科でした。1974年の入学になります。なんと、もう37年前のことです。今の医進の生徒は誰も生まれていなかったころです。

世界中の大学を荒らしまわった学園紛争の嵐が静まりかけていたときでしたが、それでも私が入ったときの青山キャンパスには、あちこちにバリケード封鎖の跡が残り、国道246側から銀杏並木に入った突き当たりの「間島記念館」(当時はあそこが図書館でした)の左側には、女子短大の方に行けないよう、よく工事現場を囲んでいる鉄の板のようなものが張り巡らされていました。

なんとなく雑然とした風景の中で一年生の授業が始まったことを覚えています。



英文科(正式には英米文学科といいました)にいましたので、最初の一年間は「基礎演習」という名のプレゼミ以外は一般教養でした。

高校で習ったこと+αでしたから、それほど面白くはありませんでしたが、それでもたとえば「法学概論」や「自然科学概論」、「哲学入門」「大学論」などには大変に興味を引かれたことを覚えています。いかにも「大学らしい」授業に聞こえたからかもしれませんね(笑)。

そのくせ英語・英文学を専攻したにも関わらず、その関係の科目には全然興味を惹かれないことに、自分で情けなさを感じていました。



まだ若い盛りでしたので(笑)、文学的なものの言い方、表現の仕方には不必要な迂遠さを感じましたし、もっとダイレクトに対象物に切り込んでいってよいのだろうに、という思いは終始頭を離れませんでした。

専攻が「国文学」ならばまだよかったのでしょうが、何しろ選んだのが「英語」という外国語です。大学生程度の段階ではどう転んでも、逆立ちしてもnative speakerにはかないません。一般的コミュニケーション力では到底かなわないにせよ、たとえば「論理」や理屈で向き合えればよかったのでしょうが、そのような基礎訓練も受けていない大学学部生ですから、結局母国語話者にはすべての点で後れを取ることになります。

これは本当に

「たまらない」

ものでした。



せっかく大学に入ったのに、自分で自信を持って表現できることが何もない、すべて他人の受け売りになる(実際はそうでもなかったのでしょうが、気持ちの上ではそうでした)ような状態は、精神安定上きわめて「よろしくない状態」だったと思います。

私が英語のdebateに興味を持ったのも、たぶんそんなところが理由だったのでしょう。そのおかげで議論には負けなくなりましたが、議論に負けないということがコミュニケーションの障害になることもあるということを、後から(社会人になってから)いやというほど知ることにもなりました。



いずれにせよ私にとっての学部の4年間は、学問研究という点からいうとはなはだ殺伐としたもので(傍目にどう見えていたかはわかりませんが)、自分の内部に常に満たされないものをず~っと抱え込んで、足元も覚束ない道筋に気をつけながら、しかも濃い霧の中を進んで行く状態だったと言えばよいと思います。

そこに持ってきて自分の「行き先・目的地」さえはっきりしていないのですから、なお悪いともいえます。

「いったい自分はなんで英文科などに入ってしまったのだろう」

と、本気で考え続けた4年間でした。

そんな状態から私を救い、明確な学問・勉強というものについて教えてくださったのが、大学3年生の時に出会ったM先生だったのです。



(続く)