2012年6月1日金曜日

あのころのこと④

ずっと以前のことですが、今までの自分の勉強の軌跡について書いたことがありました。その総まとめの部分を、理由はわかりませんがアップするのを忘れて「下書き」のファイルにしまいっ放しになっていたようです(汗)。


いまさらとは思いますが、せっかく書いたものでもあるし、最後まで書かないと記録の意味もなさないので、一応載せてみます。

興味のない方もおられると思いますので、そのような方はどうぞ読み飛ばしてください。

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青山学院、国際基督教大学で、それぞれ英語学、言語学、心理学、キリスト教思想史を学んだ私は、一つの「壁」に突き当たりました。

英語学も、言語学も、そして心理学も、人間を、いわば「外から」見る学問です。外から見るだけで何が分かるのだろうか、という疑問がその「壁」でした。

もっと人間存在の基本構造、根源的ない意味づけを理解することは出来ないのだろうか

こう思った私は、改めて自分の「存在」そのものを問う「哲学」と、そしてそれをもう一段階高いところから鳥瞰・俯瞰できるような「神学」を勉強してみたくなって行ったのだと思います。

(ICUのY先生の「キリスト教思想史」を受講したのはそのためでした。Y先生の授業は思想史というよりも「存在論」の特徴を時代の進展にあわせてご自分の見方で解説してゆくというものでした。そこで学んだ「フロント構造」という考え方は、後々まで私のものの考え方に影響を与えるものとなりました。)

別にそれから学位をとったり論文を書いたりというつもりはなく、それまで真正面から勉強したことのあまりない分野にコミットすることで、それまでの自分の勉強を集大成できるような「場」が欲しかったということなのではないか、と、今にして思います。



最近はかなり状況が違っていると思いますが、私が三つ目の大学として選んだ上智大学には当時はまだまだたくさんの外国人司祭(神父)がおり、私が足掛け3年間で取った科目の指導教官も、その殆どが、ざっと思い出してみても、スペイン人、ドイツ人、アメリカ人、フランス人と、多彩な国籍の方々ばかりでした。

中世思想研究所のある四谷キャンパス
石神井のイエズス会修道院。この奥に典礼研究所がありました。
反対側から見たところ。今はこの左側にロヨラ・ハウスがあります。

多彩な教授陣に、これも多彩な教科、分野を教えていただきました。いまはもうほとんどの方が亡くなってしまわれています。先日たまたま昔の先生とお目にかかってお話しをする機会がありました。

私が在学した当時とはずいぶんキャンパスの雰囲気も大学生の質も変わってしまったといわれました。同じことはICUの後輩にも言われました。全て人間の組織が潜ってこなければならない時代との軋轢ということなのでしょう。

典礼研究所で何度か親しく教えを受けたT神父や、哲学の奥深さを教わったR神父、D神父のことを本当に懐かしく思い出します。

私が上智大学で学んだことの中で一番重要な事柄は、

自分にとって本当に大事な問題は、他人から教わるのではなく自分で答えを見つけるべきものだ

ということでした。

確かに哲学も神学も、もう他人から教わってどうこうするというような段階はいろいろな意味で過ぎていたのだと思います。

先生方との授業も、そのほとんどが集団授業に参加するということよりは、先生方の空いている時間に研究室にお邪魔して1時間程度の話し合いをするというようなものになりました。

そこでそれらの先生方から強くアドバイスされたことが上記のことだったのです。

それまで私は職業を持ちながら半分学生のような生活を続けてきていました。仕事では決して手を抜かないこと!を信条にしていたのため、職場と学校(大学)との二足のわらじは決して楽ではありませんでした。試験の前など、数日間も徹夜が続いたり、職場での仕事が長引きふらふらになって大学に駆け込んだこともありました。不思議と授業で寝たりということはありませんでしたが、同じ教室で学んでいる他の「一般の学生諸君」との「意識の差」は、否応なく感じざるを得ませんでした。

私が最終的に「教壇勉強」に別れを告げ、自分が自分の目的意識と自分だけの問題意識で自分なりに勉強を続けようとしたのが丁度35歳のときでした。思えば長い「学生時代」ではありました(笑)。

でも私にとって先ほど書いた先生からの言葉は、今にして思うとまさに「天啓」だったと感じるのです。

私が最後の大学のICUで知り合ったA君という人がいます。彼は私よりも年上でした。本当はICUの学生ではなかったのですが、なんとなく面白い授業があるからというのでもぐりこんできていた人でした(昔はこういう「もぐり学生」が結構いたのです。大学も案外寛容で、知ってか知らずか特に問題になったことはありませんでした)。

本職は都立高校(定時制)の先生で、昼間暇だから大学生をやっているというのでした。そのときは確か国立大学に籍があったと聞いた覚えがあります。

彼は「学生生活」が好きで、

「できれば一生こんな生活をしていたい」

と言っていました。実際に出た大学も学部だけで4つとか言っていたのを覚えています。特に決まった専攻があるわけではなく、そのときそのときで

「受かったところに入る」

と決めていたようでした。それ以外にももちろん前述したようにあちこちの大学にもぐりで行っていたわけですから、まさに「プロの学生」(笑)だったのかも知れませんね。

でも私はA君と知り合いになり、少しだけ話をし、

「こうはなりたくない、いや絶対にならないぞ!」

と心に誓ったのです。何故かというと、A君と話していると彼の話の中に全くと言ってよいほど、

「人間そのものへの問題意識」

を感じなかったからです。

彼にとっての「大学」とは、一種の「遊技場」でした。そこで知り合った人たちと楽しく過ごし、学問の入り口程度の話しをいろいろと出来ればそれでよし、それ以上は望まない、というのが彼の基本的な態度でした。

私は彼の生き方、考え方を知ったとき「高等遊民」(旧い言い方です・笑)という言葉を思い出しました。漱石の時代の言葉です。

このような生活には、少なくとも私が求めていたような意味はない、このまま私が今と同じような生活を続けていたら、A君と同類になる危険性がある、それは避けなければならない、というようなことを漠然と感じていた私に、決定的な方向付けをしてくれたのが、前述した先生方からの強いアドバイスだったというわけです。

私はそれから自分の仕事の中で様々な試行錯誤を繰り返し、教育の場にあり続けながら今まで大学で学んだことをいろいろな意味で発展させる試みを続けてきました。

純粋に英語そのものを教える授業を、英語を使ってプラスアルファのことをする授業へとどうレベルアップさせるか、授業そのものを生徒が「考える」機会にするにはどうするかを考え続けました。

ディベートやディスカッションを取り入れ、プレゼンテーションという概念・訓練を導入し、AO機器を駆使、インターネットを取り入れ、最終的には今までの『授業』の概念そのものを発展的に解消・改革するような「ハークネスメソッド」(これについてはいつかお話することもあるかもしれません)に行き着きました。

そのときは気づきませんでしたが、それら全てに私がかつていろいろな大学で学んだことのすべてが生かされているように、今になって思います。

医進塾での私の仕事は管理と運営なので、そのような授業が必ずしもできるわけではありませんが、将来また何かの機会があれば、そんな形で生徒と接してみるのも楽しいだろうな、と思う最近です。