16年前の昨日、私は関西国際空港である友人と別れました。
国際教育学会の関連仕事でフィリピンに行き、関空経由で羽田まで帰ってきた、その帰途でした。
その友人にはフィリピン滞在中世話になりっぱなしでした。
フィリピンは二度目でしたが、前回(その4年前)とは違って半ば公の仕事でしたので、諸事万端に気を使うことが多く、その友人の援助なしには仕事がうまくいかなかったのです。
彼は関西が地元で、頻繁に東京に出てきて仕事をしている人でした。
東京の我が家についた翌日(つまり16年前の今日)朝一番で、私は無事の帰宅とフィリピン滞在中のお礼をかねて彼の自宅(芦屋市内)に電話をしました。
ところが、いつもは問題なくつながるはずの電話がまったく通じないのです。
その前後から、関西のほうでとんでもないことが起こったようだ、というニュースがどんどん入ってくるようになりました。
阪神・淡路大震災でした。
祈るような思いで知り合いのすべてに電話しましたが、結局どこにも誰にも通じず、彼の身の上になにかがあったことは確実でした。
数日を経ずしてこの未曾有の大震災の被害がいろいろなところから私たちの目に触れるようになりました。その惨状を見て、私たちはみな声を失いました。
人間の作りあげた文明だの文化だのが、これほどまでにもろいものであったのか、このことでした。
関空で分かれた友人とは、ほぼ二週間後に連絡が取れ、自宅はめちゃくちゃになったけれど、不幸中の幸いに、ご家族が無事であったということを知りました。彼の家族は無事でしたが、ご近所の方で亡くなった方がたくさんいたそうです。
彼と彼の家族の無事の知らせと同時に、私は阪神地区全体で6000人以上もの方が犠牲になったことも知ったのでした。
私がその友人のことを考えて、心配してあちこちに電話をかけていたとき、まさにその時間に、6000人もの方々が、その電話の向こう側で尊い命をなくされていたのです。
私はそのことを思うたびに、人間の命のはかなさと、私たちを取り巻く社会、そしてそれらを包み込んでいる「運命・宿命」というものを思います。
関空で分かれる前に、その友人から「めったに会えないのだから、チケットを変更して僕の自宅に遊びにこないか」と、かなり強く誘われていたのです。もしその誘いに乗っていたら・・・。
なくなられた6000人の方々の一人が私であったかもしれません。
生かされた命、これをこれからどう使うか、私を超えた大きな存在から私は問いかけられたような気持ちです。