2011年2月17日木曜日

選択の時・・・

今私は医進塾の塾長・早稲田ゼミナール教務課長という立場にいますが、この職に着く前は中高の現場におりました。30年ほどになります。思えば長い期間でしたが・・・^_^;。

出会った生徒の数は男女合わせて2800名。
またそのちょうど二倍の数の保護者の方とお話しをしてきたことになります。

高校であれば3年の後半、予備校であっても今頃から本当に悩ましい「進路選択」の問題が生じてきます。

「どこにも行くところがないから、もう一年・・・」というような悩みは、むしろ単純な悩みなのであって、実際には、「合格することはしたけれども、合格大学のどれに入学するか迷う」、「第一志望大学には入ったが、家庭の事情で第二志望校にすることを両親から希望された」「ある医学部(獣医学部)には入れたが、、自分としては別のところに行きたい気持ちを抑えられない。もう一年勉強を継続したいとも思うが、もう一年やって希望のところに行ける保証がないのが不安」・・・等々、選択することが途方もなく難しく見えることばかりです。

30年間、そのような相談の相手となり、一緒に問題を考えてきました。その結果の経験則にしか過ぎませんが、個々の場合すべてに当てはまる大原則というようなものはないにせよ、一生懸命いろいろと考えているうちに忘れがちな法則・原則のようなものは、確かにあるように思います。


1.進路選択に「正・誤」はあり得ないということ

センターテスト形式の試験になれてきているためか、若い世代は目の前にいくつかの選択肢を並べられた場合、ひとつが「正解」でほかは「間違い」という思考方法を、なんとなくとってしまうことが多いように思います。

人生の選択は四択正誤問題ではないのです。

どの選択肢を選んでも「正解」になり得ます。今「なります」ではなく「なり得ます」と書いた点に注意してください。小さなことのようですが、大事な点です。

どの選択肢をとってもよいのです。その選択肢を選ぶことでその人が本当に自分のうちにうずく「成長への願い」を実現できるかどうかが、判断の基準なのです。

一般に入試の偏差値が高いところに受験生は行きたがります。受験が競争である以上、それは当然なことかもしれません。

でも「入試のレベル」は、イコール「大学の教育レベル」ではないのです。関連がないとは言いません。でもストレートに関係があるかといえば、疑問の余地なしとしないのです。

無理に無理を重ねて偏差値の高い大学にゆき、今までは「自分が一番」だったところから「勉強はできてあたりまえ」という世界に入り、その結果失望と劣等感から大学を中退しなければならなくなった人を、私は何人も知っています。

反対に、自分のやりたいことを専門に研究している先生がいるからという理由で、偏差値で言えば比較的入りやすいところに入り、悠々と余裕を持って大学生活を送り、大学卒業後、日本で有数の難易度を持つ大学院に行き、そこを出てから自分の母校の大学に教授職で迎えられた人もいます。

進路選択に「正・誤」はあり得ない、その進路が自分をどう生かすか、その進路で自分をどう生かして行くかという自分の決意・決断に、すべてがかかっているということなのです。

逆に言えば、外的にはどんなに立派な選択肢であったとしても、自分を生かして行く決意がもてない選択をすることは、誤りとはいえないまでも、後から振り返って「ミス」したと思う可能性が高いということでもあるでしょう。


2.「あきらめる」ことは、立派な価値判断です。

人の生涯にはいろいろな制約が付きまといます。地域的な制約、金銭的な制約、年齢的な制約、親族的な制約、数え上げたらきりがありません。

そのような制約の中で、それを受け入れつつ生きて行くのが人間というものです。自分のしたいこと、自分の希望がそのままの形で実現することは、まずあり得ないと言ってよいでしょう。

塾生の皆さんは、今まで自分の希望をそのまま実現させるために勉強を続けてきました。それは悪いことではないし、また実現可能なことです。なぜなら「勉強」は自分だけの事柄だからです。

今皆さんが直面している問題は、その「自分だけの問題・事柄」と、大きく言えば自分だけではない「社会」との接点の問題だともいえるのです。

社会との接点の問題である以上、自分だけで解決はできません。

特に金銭的な面で負担をかける、ご両親との話し合いが大きな意味を持ってくるだろうと思います。
話し合いの結果、自分の最初の希望が通らないこともあるかもしれません。でもそれにはそれなりの意味があるのです。「社会的な制約」に直面した結果自分の当初の希望のとおりにならないことを「受け入れる」=「あきらめる」ことは、立派で積極的な「価値判断」だからです。

制約を自分から堂々と受け入れ、「あきらめる」ことは、きわめて高度な、人間にしかできない積極的な価値判断・決断なのです。

「あきらめる」を辞書で引くと「諦める」という漢字以外に「明らめる」が出てきます。これはきわめて象徴的な事柄ではないでしょうか。

「あきらめる」ことは、決して悲観的・消極的な態度ではないのです。むしろ人生の先を見て、その先をしっかりと「明らめる」=「明らかにする」態度に通じるものなのです。


3.感謝のうちに選択をする人はよい選択ができ、その結果幸せになるということ。

先ほど「その選択肢を選ぶことでその人が本当に自分のうちにうずく「成長への願い」を実現できるかどうかが、判断の基準」と書きました。

それと同時に、「自分をここまで育ててくれた人への感謝の気持ち」をもてるかどうかも大事な基準となってきます。

「自分がしたいこと」を考えることが可能になったのは誰のおかげでしょう。両親であり指導してくださった先生方ではないでしょうか。友人の励ましもあったことでしょう。それらすべてに対する、心からの感謝の気持ちを持ち続け、その気持ちにうそをつかないような選択をする人は、大きな判断のミスをしないですむことが多いように思います。

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以上三点を書きました。
これ以外にも覚えておくべきことは多々あります。

ですが、まずこの三点がもっとも大事なことです。

塾生全員が、納得の行く、よい選択をすることができるよう、心から祈っています。