それに関して塾生の一人から質問がありました。
「あきらめることは弱気ではありませんか。塾長は日ごろから『勇気をもって、最後まであきらめるな』と言っているじゃありませんか」
と言うのです。
「よく読んでいる」
と感心する反面、これは説明が足りなかったかな、と反省した次第です。
「あきらめる」には「諦める」と「明らめる」の二つの言い方があり、後者の「明らめる」は決して弱気の表現ではないと書いたつもりだったのですが、もともとの語感を凌ぐには至らなかったようです。
私が本当に書きたかったこと、分かって欲しかったことは、
「捨てる勇気がなければ、選ぶことはできない」
このことでした。
人の一生は「選ぶこと」の連続でできています。生きることは「選ぶこと」です。小は昼食に何を食べるかの選択から、大は自分の結婚相手に誰を選ぶかに至るまで、選択の連続がすなわち「生きること」なのです。
選択の主体が自分であるならば大きな問題はありません。「今日のお昼はカレーかラーメンか」という「選択」ならば、「ラーメン」を「捨て」て「カレー」にする、このことにそれほど大きな困難が伴うわけではない。
でも、人生必ずしもそういう選択ばかりではないですよね。たとえば「この人と結婚したい」と思ったとしても、相手が自分を選んでくれなければ、そもそも婚姻は成立しません。
人生は選択の連続であり、主体が自分のこともあれば他人のこともある、選択主体が他人の場合、選んでもらうための最善の努力を自分は重ねるにせよ、選択そのものに決定的・最終的な影響を与えることはできない、そのことを「あきらかなものとして積極的に受け入れる」ことが「明らめる」ということの本当の意味だと、私は考えています。
先ほど「捨てる勇気がなければ選ぶことはできない」と書きました。「捨てる」というのは、他者の選択に意図的な影響を与えたいという、「自我」からくる欲求を「捨てる」ということでもあります。
「自我」は何よりも自分の存在の永続性を希求します。そのために周りの存在すべてを「自分の尺度」で測り、すべてを自己の存在の下部構造として位置づけるのです。エゴイズムとはそのようなものです。
先ほどの例を敷衍すれば、選択権が他者にある選択項目をも、すべて「カレーかラーメンか」という、自己中心の選択行為として考えてしまう傾向を持つものが「自我」だとも言えるでしょう。
少し難しい話しになったでしょうか(笑)。
受験というものを通じて、単なる自我表出形式としての選択から、社会性を意識した「自己=Self」による選択のプロセスに至ってもらいたい、と、私は強く願っています。
なんだか実存哲学の入門講座のようになってしまいましたね(汗)。