2011年2月23日水曜日

三昧(さんまい)ということ

私が英語・英文学についての勉強に一段落つけ、高校の現場で仕事をするようになったのは25歳の時でした。大学院へも並行して通っていましたので時間的なゆとりという点から言えばかなり大変でした。

でも心の中はなかなか豊かなものでした(笑)。何よりも教える現場で実際の生徒の生の声、生きた反応を聞きながらする授業は、それなりの緊張感もありましたし、大学で一方的に講義を聴いたり、概念だけが先行するゼミでの話し合い、議論などより、ずっと「やりがい」があったのです。

私が初めて「社会」というものと接点を持った瞬間でした。最初の授業のことは今でもよく覚えているくらいです(笑)。

その後、哲学、心理学、キリスト教思想史、神学というふうに興味の変化に応じて勉強の場所を変えましたが、私の頭の中にあったのは「教わったことを、実際の現場でどう生かすか」ということに尽きていたと思います。

二番目の大学・大学院は国際基督教大学(ICU)でした。臨床心理学の専攻生として入学しました。平行して勤めていた学校は全寮制の高校でした。週に二回宿直がある代わりに、平日三日は休めるという、思えば変な学校でした(笑)。その時間を使って大学に通ったのですが、これは自宅がICUキャンパスのすぐそばにあったからできたことで、遠い場所ならば不可能だったでしょう。

それでも宿直明け、睡眠不足であまり働かない頭を何とか働かせて、他の大学生、大学院生と混ざって朝一番から授業を聞くのは、慣れるまでは非常に大変だったことをよく覚えています。

職場での定期考査と、ICUでの定期考査が重なったときなどは、一週間くらい一日の睡眠時間3-4時間で勉強しました。今日は教える側として問題を作り、明日は教えられる側としての勉強をしているというようなわけでした。徹夜することも何度もありました。

今でも覚えているのは、1学期最後の試験の時のことです。

勤務校で自分の科目の試験を行い、それを自宅で採点、平均点等の統計をとり一覧表に記入します。それがすべて終わった段階で翌日の自分の試験のための勉強に手をつけました。

すべての学問・勉強は基礎的な専門用語の概念が明確に把握されていることを前提とします。そのためには正確な暗記しかないわけで、その時も心理学の全範囲にわたって500ほどの専門用語を一晩か二晩で確実に頭にいれることが求められていました。

午後の10時ころから勉強を始め、終わったら寝ようと思っておりましたが、敵もさるもの(笑)、真夜中の12時を回ってもまだ全体の四分の一も終わりません。

2時、3時ころになるともう頭が呆然としてきて、自分で自分が何をやっているのかがわからなくなってくるほどでした。

それでも翌日に試験がある以上、やめるわけには行かず、そのまま4時過ぎまで勉強を継続しました。

夏ですから日の出は早く、4時半ころだったでしょうか、なんとなく東の方が薄明るくなってきたときでした。私は一種の強烈な「幸福感」に襲われたのでした。

理由はよくわかりません。ひたすら勉強に打ち込んでいる自分がそこにいる、まさにそのことが大変に幸福な状態なのだという、一種異様なまでの「存在への信頼」が私の心の中に生じたのです。

言葉で説明することができないほどの「満足感」と言ってもよいかもしれません。

睡眠不足も疲労も、すべて忘れました。

同時に、翌日(実際には当日でしたが)の試験が、まったく怖くなくなりました。よく人は熱心に勉強した後の気持ちを「自分はこれだけやったのだから・・・という自信」などと言います。

私のそのときの感覚(ではないのかもしれませんが、それしか言葉が見つかりません)は、そのような「小賢しい」(笑)ものとはまったく異なったものでした。

一番近い言い方は「大きな肯定」だと思います。

この世の中には試験をする人もいれば、受ける人もいる。受かる人も落ちる人もいる。喜怒哀楽、栄枯盛衰は世の習い、それに間違いはない。でもそれらのすべてを「大きく肯定する」ことができれば、すべてのものの意味がはっきりとわかる。その意味がわかった人間には、もはや合格とか不合格という判断基準は当てはまらない。合否すら問題にならないような「試験に対する態度」を可能にするものが、その「大きな肯定」です。

ちょっと難しい言葉かもしれませんが、存在すべてに対する絶対的肯定ということもできるかもしれません。

私があの瞬間に味わったものは、紛れもなくその「絶対的存在肯定」の一部であったようです。

ほぼ徹夜に近い状態でしたが、疲れを感じることもなく私は翌朝ICUの試験会場に向かいました。他の学生60人ほどと一緒に、普通どおり試験を受けました。試験問題が配られて問題を見た瞬間、私は驚愕しました。その問題を出題した先生の「気持ち」が、ストレートにわかった気がしたからです。

これは不思議な体験でした。

試験問題を見て、出題者が「なぜここにこの問題を出したか」がわかってしまう経験というのは、後にも先にもあの時くらいしか私は思い出せません。

でも私が驚いたのは、改めてよく考えてみると、出題者の意図・気持ちがわかったからという理由からではなかったと思います。

むしろ出題の先生の意図がストレートに実感できたこと、そのことにあまり「驚いていない自分に驚いていた」ということだったように思うのです。

なかなか言葉にするのは難しいのですが、まさにそんな体験でした。

私は後年、諸宗教神学の勉強の過程で「禅仏教」を取り上げました。仏教の奥義が理解できたなどと大それたことを言うつもりはまったくありません。

でもそこで学んだ「三昧(さんまい)の境地」が、案外それに近いのかな、などと考えています。

同じような体験を、実は私はその前、大学の空手部での練習中にしているのですが、その二つが似た体験であったことに気がついたのは、ずっと後になってのことでした。

その話しは、また後日・・・(笑)。