2011年8月3日水曜日

不安の中の「可能性」

はるか昔、大学で「精神病理学」の授業を受けているとき、『「不安」と「恐怖」の違いを心理学的に説明せよ』という問題に出会って、院生のグループで大きな議論になったことがありました。

「不安」はその対象が不明確な場合、「恐怖」は対象が明確な場合に、それぞれ起こるひとつの「心的反応」である、と答えれば合格点はもらえたのですが、私たちの議論はそこから先に進みました。

「対象が不明確であるために起こる心的反応が『不安』であるならば、それはむしろ好ましいことなのではないか。そこから新しい方向に進むことができる『可能性』を秘めているものが『不安』なのだから」というのが、結論の大勢でした。

いかにも若さの先走った議論・・・であるには違いないのですが、私は今でもこの結論は間違っていないと思っています。

私たちが物理的に先に進むためには、通常は一歩足を前に出して、自分の重心線を支持面からずらし、わざとバランスを崩して前のめりになったのを、出した足で作る新しい支持面で受け止める・・・という一連の行為をなさねばなりません。

一歩足を前に踏み出すことは「当たり前のこと」ではありますが、幼い子供のたち歩きの最初を見ればわかるように、本当は大変に「不安」なことなのです。

でもその「不安」に耐えなければ先には進めません。

「不安」に耐えることが「前進」を産むのです。だとしたら「前進の可能性は『不安』の中にこそある」ともいえるのではないでしょうか。

これは言葉の遊びではありません。

古来多くの成功者が、自分の成功の原因は不安をどのように乗り越えたかにあるのだと語っています。このことなのです。

今医進塾の塾生は、みな「不安」を抱えて生きています。でもその「不安」があるからこそ、新しい出発ができる、新しい一歩が踏み出せる、新しい未来が開けてくるのだ、と考えられないでしょうか。

そう思えば「不安」な『今』は、決して忌避するべきものではなく、むしろ自分を高める絶好の機会なのだと考えられないでしょうか。

ぜひそう考えてもらいたいものです。

それが未来を切り開く「かぎ」となるからです。