2012年1月19日木曜日

貧しさということ

何とか製紙の三代目に当たる方が、子会社から100億円以上の金銭を巻き上げてそれを海外のカジノで使い果たしてしまったというニュースが、数週間前に新聞紙上を賑わせました。

私がその話を読んだとき、まず最初に持った印象は、

「なんと貧しい家庭教育を受けた人なのだろう・・・」

というものでした。

大きな製紙会社の御曹司として、何不自由ない生活を幼いころから保証され、地方都市に住みながら学生時代は飛行機で東京まで毎週通って予備校などで勉強していたと言います。出身大学は東大で、大学生時代から父親のお金で銀座のクラブなどに入り浸っていたのだそうです。

私が尊敬する評論家の一人に、福田恒存という方がいます。彼は戦後かなり早い時期にアメリカに行き、その「大量生産・大量消費」の「アメリカ式ライフスタイル」を目の当たりにし、

「なんと貧しい生活であることか!」

と慨嘆したそうです。

戦後まもないころで、物質的には日本国内はまさに「食うや食わず」の生活をしていた、その日本から見ると、戦勝国アメリカはまさに、

「後光が差している」

ように見えたはずなのです。それを福田は、

「精神が貧しい!」

と喝破して憚りませんでした。

それが日本という敗戦国に住む「持てないもの」の、アメリカという「持てる国」に対する、一種の嫉妬感情ではなかったということは、その前後の文章から明らかです。

私ごとき一介の教師が、不世出の大評論家である福田恒存の言葉を引くのは、雑魚が鯨をもって自らを喩えるのに等しいと、お叱りをうけるかもしれません(笑)。

でもそのお叱りも、私にとっては嬉しいことです。というのは、私は、あの『愚か』としか言いようのない三代目の御曹司の生活に「貧しさ」を感じ取ることができた瞬間に、福田恒存が今から数十年前に大国アメリカに対して持ったのと同じ感覚を持てたことへの、一種の

「誇らしさ」

を感じたからです。

これも一種の「上から目線」というものなのでしょうか(笑)。よくわかりません。

改めて考えてみると、あのおバカな御曹司が受けた家庭教育が、もう少し「まとも」なものであったとしたら、彼は誰から言われるでもなく、自分の振る舞い、行動に、

「恥ずかしさ」

を感じたはずだと思うのです。

「恥を知る」ことは、すべての人間教育の

「基本中の基本」

ではないかと思います。

一人ひとりが、恥を知り、身をつつしみ、社会の「一隅を照らす」存在たらんとする努力を怠らないこと、それができない人間は、その存在そのものが「貧しく、恥ずかしい」ものなのだということを、

「皮膚感覚」

でわかるように育てること、それが教育の最大の目標・目的であるように思えてなりません。

だとするならば、真の教育とは、

「家庭に始まり、家庭に終わる」

ものだということもできるのではないでしょうか。

医進塾は「家庭」ではありませんし、また一種の「擬似家庭」として存在することを目的とするものではありません。でもここに集う塾生たちを見ていると、それぞれのご家庭のよい部分をそのまま持ってきて、お互いに知らず知らずのうちに、

「教えあっている」

としか言えない場面によく出会います。

そんな風にそれぞれのご家庭の「家庭教育」に、何ほどかでも貢献できる場が医進塾であるとしたら、それもまたひとつの医進の、

「存在意義」

なのではないか、と思う最近です。

なんだか柄でもない「道徳講座」になってしまいました(汗)。