先ほどの「ちょっとよい話」への、蛇足的付け加えです。
「彼女はポロポロと泣き崩れたまま
レジを打つことができませんでした
仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと
初めて気づきました
すでに彼女は昔の自分ではなくなっていたのです」
の部分に関してです。
『仕事というのはこれほどすばらしいものなのだ』
ここは
『仕事というのは、これほどすばらしいものにできるのだ』
と言い換えたほうがよいと思います。
どんな仕事でも、最初は決して楽しくないのです。最初から、
「楽しくて、楽しくてしょうがない」
という仕事も、無いとはいいませんが、例外です。また最初は「楽しくて」しかたない仕事も、最初の楽しさなどは長続きしません。すぐに
「飽きて嫌になる」
のが本当のところだと思います。
どんな仕事でも最初は大変なのです。
最初大変な仕事であっても、それをする人間の「こころの持ち方一つ」で
「苦しいが、やりがいのある」
ものになるのでしょう。
「やりがいがある」からこそ、その結果として
「楽しいもの」
になるのではないでしょうか。
そこに至るまでには、必ずかなりの年月の
「修行」
が必要なのだと思います。
私は池波正太郎の作品が好きなのですが、彼の文体の特徴に副詞の使い方があります。
「一生懸命働く」
のではなく、
「一生懸命、働き抜く」
のです。
とてもよく感じが出ているのではないでしょうか。
前回の話の主人公の女性は、レジのキー打ちにピアノの練習を思い重ねて、「働き抜く」ことを知り、その結果それ以外のことができるようになった、そしてそのことが彼女の一生を変えていったのだということなのではないでしょうか。
英語の教師としてはたいしたこともない私ですが、それでも最初の高校のS学園での体験(1週25時間の授業と10時間の放課後補講、それに土日の勉強合宿を月に3回)がなければ、今程度にもなれなかったに違いありません。朝の6時半から夜の11時まで学校におり、『泊まっていったほうがはやいんじゃないか』と校長から何度言われたことか・・・(笑)。
英語に限らず、何かを自分が学び、それをよりわかりやすい形で生徒の前に提示することのすばらしさを知ったのは、そんな体験があったからです。
最近は就職難ということもあり、ちょっとばかり他人より英語ができる人が英語教師の職を求めてくることが多いようです。
でも教職を本当にやりがいのあるものにするためには、単なる教科指導以上にしなければならないことが山積しているのだということは、知っておいてよいことでしょう。
そしてそれは英語教師に限らず、医師、獣医師にとっても言えることなのではないか、と思うのですが・・・。