2012年1月25日水曜日

人のこころが決められないもの

今日も医学部の入試が続いています。発表もそろそろですね。
結果がどうなるか、ドキドキしながら待っています(笑)。

私はいままでこのブログで「すべてはひとのこころが決める」ということを書いてきました。私たちの周りにあるものの99%が、その存在に先立って「ひとのこころ」があったということも指摘した通りです。いま私は自分のオフィスの机に座ってこの文章を書いています。目の前にあるもので、「ひとのこころ」によらずにできたものは、何一つありません。

パソコンも、デスクライトも、座っている椅子も机も、キーボードも、コーヒーカップも、あるいはその中身のコーヒーも、暖房も、応接セットとその上の加湿器も、これらはすべてこの世に存在する前に「ひとのこころ」があったのです。人がそういうものを欲しいと思わなければ、そもそも存在しなかったものなのです。

でもこの世の中に「ひとのこころ」に因らないものがひとつだけあります。それは

『生命(いのち)』

です。

人間や動物、植物のすべてに共通する『生命(いのち)』だけは、私たちの心では作り出すことができません。

世の中には「唯物論者」という種類の人がいて、この世の中のすべてのものは「科学」で説明がつくし、また説明しなければならないという主張をします。

さすがに最近はあまりにいろいろなことが起こりすぎて、素朴な唯物論を説く人は少なくなっているようです。それでも形を変えた唯物論者は私たちの周りにたくさんいます。

以前そのようなタイプの方(ある研究所で細胞の研究をしている人でした)と話をする機会がありました。その方の「純粋唯物論」的なものの考え方があまりに極端(この世のすべてのことは科学の理論と法則で説明がつく)だったので、私は半ばふざけて次のように聞きました。

「わかりました。では『生命の生成と存在』について説明してください」

その方はしばらくうなって、最後にこのように答えてくれました。

「まだ今の科学ではそこまでのことを説明することはできないが、科学がもっと発展すれば必ずできるようになる」

このような議論を一般的には

「詭弁」

といいます(笑)。

科学が発達すれば「生命の『現象』」がどのようなものであるかということは説明がつくかもしれません。でもそれがなぜ「今」「ここに」存在するようになったのかということは、「記述(説明)」を前提とする『科学』一般では答えることができないのです。

「生命」について微細に説明・解説することと、「生命」を作りだすこととは根本的に範疇の違う事柄だということに、先ほどの研究者が気づいていれば、自分の説明できる範囲でならば解説可能だと答えたでしょう。

でもそう答えるとそれは「科学ですべてが説明できる」という彼自身の前提と矛盾することになってしまいます。

ひとのこころが決められない唯一のもの、

『生命(いのち)』

に直接かかわる仕事につこうとしている医進塾の塾生たちに、私が倫理的に非常に高いものを要求しているのには、こんな理由があるのです。