「日本における英語学のレベルを、イギリス本国並みに引き上げた」といわれた先生でもありました。イギリスの大学と提携して、当時ロンドンにあったEarly English Text Society(略してEETS)から英文学の古写本をファクシミリで直接手に入れるようなシステムを作ったのもM先生でした。
「人間の言葉と文化の研究は言語事象を歴史的に見なければ絶対にわからない」という立場のM先生は、アメリカを中心に当時大はやりだった「変形生成文法」を、一切信用していませんでした。
M先生から学んだことは、
①言語事実をしっかりと見つめること
②いたずらに理論に走らないこと
③言葉に関係のあるすべての分野を研究の対象にすること
の三つだったと思います。
①は、辞書編纂のお手伝いをさせていただくことで徹底的にしごかれました。「明確・明瞭・簡潔に、かつ厳密に」という、辞書に要求される二律背反の原則を、何とかしてこなそうとしている編纂スタッフの方々の日々の血のにじむような努力を目の当たりにできたことは、まだ若かった私にとって本当に勉強になりました。
「辞書編纂のような細かいお仕事をしていると、視力が落ちるのではありませんか」
という私の愚かな質問に、
「外山くん、辞書一冊作ると昔は『人が一人死ぬ』といわれたものなんだよ」
といわれたときのことを覚えています。
②は変形生成文法に対する強烈な批判だったと思います。「理論・規則を作ってから、それに合う言語事実を探すなどというとんでもないことをしてはならない」というのがM先生の口癖でした。
また
「自分の理論ですべてが説明できるというような学説は、それだけで信用に値しないということを覚えておきなさい」
といわれたこともはっきり記憶に残っています。
言葉についてのすべての分野(文法、文体、語彙、発音、その他)だけでなく、文学、哲学、歴史、思想、場合によれば自然科学の分野に至るまでのM先生の博識に触れることで、③は自然に身につきました。
「自分の専門は○○です」
などといえないくらい、いろいろな分野について興味をもって勉強することで初めて自分なりのものの考え方を打ち立てられるのだ、というM先生の考え方は、専門家を気取りがちな中途半端な大学学部生であった私にとって本当に大きな「衝撃」でした。
アメリカやイギリスの大学に招かれて比較文学や比較言語学の講義をすることができるほどの博識であり、かつPolyglot(多言語話者)でもあったM先生に、
「先生は何ヶ国語くらいおできになるのですか」
と聞いたことがあります。
「20ヶ国語くらい勉強したけれど、本当にやったといえるのは英語だけですね」
という謙虚なお答えをいただき、その英語すらまともに勉強していない私は恥ずかしさで赤くなったことも、今となっては懐かしい思い出です。
書いたように、M先生は本当に厳しい方でした。
でもその「厳しさ」こそが、私を4年間支えてくれたことも事実なのです。
足元も覚束ない沼地を歩くような英文科の4年間を、何とか卒業までたどりつき、その後、大学院で英語学をM先生に2年間みっちり教えていただくところまで行ったのも、
「少なくともM先生のところには『何か』がある」
ということを、当時の私が未熟ながらも感じ取れていたからだと思います。
自分の興味の変遷から、最終的に私はM先生の研究室を離れ、その後国際基督教大学(ICU)で心理学と西洋思想史を勉強することになります。
今思ってみても、あの時M先生に接していなければ、今の私は存在しないということだけは確かだと思います。
ICUではまた別の意味で大きな影響を与えられたK先生、H先生、HR先生に出会うことになります。
(続く)
(私のコメント)