久しぶりに8時前後の登校状況を確認しました。
7時半から8時前後にかけて、8名の塾生が登校し、それぞれ勉強の態勢に入っていました。自習室のブースで熱心にノートに問題を解いている人もいましたし、食堂で朝食をとりながら単語の暗記や生物の参考書を開いている人もいました。
早朝登校が増えることは、全体としてとても好ましいことです。そのことは、以前に書いた覚えがあります。この傾向が続くことを期待しています。
反面、体調不良での欠席も目立ちます。今朝は5名の欠席。3人から欠席連絡がありました。2名は連絡なしです。
具合が悪くて休んでいる人に一々連絡を義務付けるのは、ちょっと酷なような気もします。でも「社会人」ならば当然のこと。連絡もできないほど悪いのならば、即「入院」となってもおかしくはありません。自分の体調の「維持管理」、ならびに何かあったときの「連絡」だけは、忘れて欲しくない事柄です。
「生命倫理学」(Bioethics)という学問分野があります。その分野での「健康」の定義です。
『身体的・精神的、さらには社会的にもwell-beingな状態であり、自分の希望するように行動でき、自己の行為の責任を取れる状態』
Well-beingをなんと訳すかは大きな問題です。要するに「身体の調子が(総体として)良い状態」を指すのですが、適訳がありません。
この健康の定義はWHO(世界保健機構)の定義を若干手直ししたものです。これが「健康」である状態であるならば、この状態から外れる状態が「病気」であり、その「病気」の状態を少しでも「健康」の状態に近づけようとする人為的な努力全体が「医療」と呼ばれることになるのでしょう。
医進の塾生は基本的にみな、
「健康」
のはずです。またそうでなければなりません。
他者や動物の「病い」を診るのを一生の仕事と決めた人間に絶対に必要なことは、
「自己の健康」
だからです。
先ほどの「健康の定義」をよく理解して、日々の自分がそこからどの程度逸脱しているのかを常にチェックし、必要なことがあれば直ちに医療との接点を持たねばならないと思います。
でも同時に考えておきたいことが一つあります。この定義は「診断された病気」の有無については
「何も言っていない」
という点です。
極端なことを言えば、たとえその人が体内に末期癌を持っていたとしても、この定義に従えば、
「健康であり得る」
ということなのです。
これはとても大きなこと、大事なことではないでしょうか?
誰でも「病気」を自分の身体に持ちたくない気持ちは一緒です。でもたとえ病を得たとしても、それがイコール「不健康」にはつながらないのです。
私たちは、
「病いを持った健康体」
として存在できるのだということ、このことは、「一億総病人時代」とも言われる現代において、計り知れないほど大きな意味を持つのだと、私は考えています。