昨年の3月11日は、ごく平凡な一日として始まりました。
私の手帳には
「①授業報告書確認・記載、②午後「生物」特別講義(K藤主任)、③次回学校説明会参加者への連絡」
と書いてあります。
何もなければ、ごく普通の一日として記憶にも残らずにそのまま終わる日だったはずです。
2時48分は、「生物」の授業中でした。大揺れが始まるやいなやK藤主任が生徒全員に『机の下に隠れて!』と指示を出しているのが聞こえました。
私は部屋のドアを開け、特に自習室の大きな入口ドアが閉まってしまわないよう、開け放すためにそちらに向かいました。
ドアは難なく開きました。内部を確認してけが人等がいないことがわかった時点で部屋の外に出ました。
その瞬間、今までに聞いたことのないような不気味な「ギシギシ」という音が天井付近からしました。
「これはただ事ではない!」
地震にはかなり慣れているつもりの私ですが、教室が潰れるかも!と一瞬青ざめたことを思い出します。
生物の授業は直ぐに中止。帰れる生徒は直ぐに帰しました。文系事務室でも女子職員はただちに帰宅。医進では私、文系事務室ではT所次長が最後まで残って揺れと被害の確認をすることになりました。
幸い物理的な被害は皆無でした。その時点で塾内にいた生徒は10名。JRが不通で帰宅の目処が立ちません。すぐ近くに部屋を借りていたS木さんのところにK地さんをお願いすることにし、ほかにも徒歩で帰れる人、迎えに来てもらえる人はできるだけ早く帰すようにしました。
困ったことに電話が通じません。完全に通話不能というわけではなく連続してかければ4回に1回くらいはかかるので、根気良くかけ続けるしかありません。
下手に動くよりも塾内にいたほうが安全だという判断で、教室には男子生徒、自習室には女子生徒を入れ、様子を見ながらできるだけ身体を休めるようにしました。
その後、私たちは文系事務室に設置してある非常用テレビで、地震の被害と津波の大きさを知ることになります。今までに見たこともないような高さの津波が大地を呑み込んで行く様子は、私たちの予想の範囲をはるかに超え、畏怖の念すら感じさせるものでした。
これが大災害であることは直感的に理解できました。ですが私の心の中にはその段階から何となく「たとえどんな災害が襲ってきても、絶対日本は大丈夫」という思いがあったことも否定できないのです。
その根拠は、と問われると、自分では
「わかりません」
としか言えません。
でも、それでもなお、日本と日本人とは、
「大丈夫!」
という思いは今でも持ち続けている私の信念のようなものになっているのです。
あれからちょうど1年が経ちました。2万人近い方が尊い命を亡くされ、未だに数十万の方が避難生活を余儀なくされているといいます。
大地震、大津波、そして原発の大事故。すべてが現代の日本人にとって未経験に近い事柄でした。
それでも、なお、日本人はその経験を生き抜いています。
細かいミスやトラブルは人間ですから避けられません。それでも、あの時世界中を感動させた、規律正しさ、譲り合い、助け合いという、人間の尊厳の本質とも言えるものを堂々と示しながら、生き抜いてきています。
その「人間としての高貴さ」を持つ限り、日本人は絶対に大丈夫です。
医進塾の塾生が一人残らず、将来この日のことを忘れず、世界中から示された援助の手を今度は世界に向けて伸ばして行く存在になってもらいたいと、心から願います。
3月11日の「東日本大震災」が、将来彼らにそのことを思い起こさせる日になるよう祈ります。