以下は川崎協同病院の和田先生のブログ記事から。
(ご本人の許可を得ての転載です。)
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10月9日にも投稿したN君が、星になった。
5年以上闘病を重ね、数回の大手術を乗り越えてきたN君にとって、僕はたった18日間だけの最後の主治医だった。
あまりにも急激な病状悪化のさなかに、僕らは出会った。N君の妻は、僕の勤務する病棟の看護師だった。自分よりも若く、まだ小さなお子さんがいるN君の冷静さに、僕は動揺した。奇跡でも何でもいい、息子さんの誕生日を一緒に迎えてほしかった。川崎大師のお守りや来年のカレンダーを渡したのも、丸山ワクチンに登録したのも、全て本気だった。「最初から緩和ケアだけに取り組む主治医」にはどうしてもなりたくなかった。僕は胸水を抜いたりステロイドを使ったり、できることは全てやってみたものの、予想を遥かに上回る病気の猛勢の前では、何度かの外泊を可能にするのが精一杯だった。
■先が見えない
入院後ほどなくして、妻がN君の気持ちを伝言してくれた。
「〇んセンターでは、治療について自分の意見や意志を差しはさむことは一切なかった。良くなるからやれと言われたことを、ただ頑張ってきた。だから、今後どうしたいかという思考に慣れてない。どうしたいか聞かれても、何がどこまでできるのか、残された時間がどれくらいあるのかもわからない。だから、体がおちついていても考えられないんだ。普通は、明日は何食べようとか、月末に雑誌買いに行こうとか、とりとめもないことを考えながら眠りにつくけど、自分には今後がない。だから考え事ができない。何がしたいという考えにならないんだ。」
■Dignity Therapy
彼の心境を知った僕は、その日の夕方、ノーマ・コーネット・マレックの「最後だとわかっていたなら」を渡しながら、N君とのんびり話をした。
予後は週単位~日単位であること。呼吸困難や痛みで辛い状態になったら、伝えたいことを家族に話す余裕はないこと。いつ急変してもおかしくない状況で、今晩ですら「絶対急変しない」という保証はできないこと。
「…だから、大切な人に伝えたいことは、今、伝えてください。ただし、死を前提に話すことは、家族を死と向き合わせることにもなります。だから、N君が家族を傷つけそうな気がして話すのをためらうのなら無理はしないで下さい。もしも僕でよければ、家族へのメッセージを僕に託してください。責任を持ってN君の言葉を預かって、しかるべき時にご家族に伝えます。」
N君はdignity therapyに強い興味を示した。
「そんなことができるのなら是非お願いします。でも、何を話せばいいのかな…ICレコーダーも持って来てるんですけど、いざとなると何を話したらいいかわからなくて。」
僕は彼にいくつかの質問をした。
「N君が今まで生きてきて、一番うれしかったことは何?」
「それは…やっぱり子供が生まれたことですね。ずっとできなかったから。本当にうれしかったです。」
「奥さんに一番伝えたいことを教えて下さい。」
「うーん……。結婚してくれてありがとう…だな、やっぱり。」
「息子さんには?」
「息子には…二つあります。一つは、お母さんを支えて下さい。もう一つは……強い男になれ!!」
僕もN君も泣いていた。
「もしN君が言えなかったとしても、僕が必ず伝えますから。」
N君の表情がみるみる和らぎ、そしてこう言った。
「先生と話してたら頭が整理されてきたから、今から妻と息子に話したい。」
その日の夕方、彼は家族水入らずで話をした。それまでほとんど夜も眠れなかったN君が、その晩からぐっすり眠れるようになった。
次の日僕は、妻にこう言われた。
「昨日はありがとうございました。“お父さんは天国に行くんだよ”って息子に話してました。あのあと家に帰ったら、テレビで“天国に一番近い島・ニューカレドニア!”っていう番組をやってて…息子がそれを見て“お母さん、僕あそこに行きたい。お父さんに会えるかもしれないから!”なんて言って…子供なりにいろいろ考えてるんだと思います。」
■N君の覚悟
僕はN君のブログが、亡くなる3日前の朝に更新されたことに気づいた。
「これまでお世話になった方にお礼を言う時期かと思い、掲示しました。心残りも多いですが、幸せな人生でした。これまで応援、支えてくれた皆さん、本当にありがとうございました。」
僕はN君の覚悟を知った。N君はDNARについて〇んセンターですでに説明をうけていたが、僕はその日のうちにDNARの相談をしなきゃいけないと思った。
「患者さんが院内で急変した時、スタットコールによって蘇生が開始されるのは病院全体の決まりごとです。でも僕達は、意味のない蘇生という苦痛からN君を守りたいと強く思っています。もしこの紙にサインすることでN君自身が安心できるなら、どうかサインしてください。でも、もし少しでも不安な気持ちがあるならサインは不要です。たとえサインがなくても、僕らはその時点でのベストの決断をしますからね。」
N君は「喜んでサインします」と言ってご夫婦でサインしてくれた。そして翌日から外泊に出かけた。これが、N君の最後の外泊になった。
■最後の外泊
外泊した日の夜に呼吸困難感が強くなったとの連絡を受け、僕は業者にかけあって真夜中に在宅酸素を設置してもらった。
翌朝、僕はN君に会いに自宅に行った。だいぶ調子は悪かったが「このまま家にいたい」とN君ははっきりと言った。僕は迷わず彼のリストバンドをはずした。もう病院に戻る必要なんかない、このまま最期まで家族と一緒に過ごしてもらいたい、と心から思った。夕方オペが終わってすぐ、僕はまたN君の家に行った。緩和ケアチームで作った「旅立ちの準備」というパンフレットを持参して、付き添っているご両親にもこれから予測されることを詳しくお話した。
そしてその日の夜。
「たった今、主人が亡くなりました」と妻から連絡を受けた。僕はN君の家に飛んで行き、お別れをした。ただただ悲しかった。3週間にも満たなかったが、僕はN君と本当にたくさんの話をしたし、N君のことを心から尊敬していた。僕が死亡の確認をしている間、息子は神妙な顔でそばについていてくれた。あの日の夕方、N君は家族を呼んで3人でいろいろな話をしたが、話した内容を改めてきいてみると、N君が僕に託してくれたことは一切伝えられていなかったのだった。あの時に聴いといてよかった、と僕は心から思った。死亡確認を終えてから、僕はN君から預かったメッセージを家族に伝えた。今、自分はN君なのだと言い聞かせて、家族と向き合った。
僕は家族と一緒にエンゼルケアを始めた。髭そりとメイクは、いつも必ず自分がやらせてもらっている。僕がN君の髭を剃っていると、息子がいきなりビデオカメラで僕の撮影を始めた。びっくりしたが、N君に時々話しかけながらそのまま髭そりを続けた。「はい、おしまい。きれいになったよ!」僕がN君に声をかけると、息子は小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。
「お父さんに着せる服を見てこよう。お父さんに一番似合うの、探してね。」妻は息子と一緒に、最後に着る服を探しに行った。息子が選んだ服を見て、僕は本当にびっくりした。彼が持ってきたのは奇しくも、N君が最期のブログ更新で掲載した、息子と手をつないで写っているN君の服だったからだ。
■喪失感
たった18日間という短い関わりだったのに、なぜか喪失感が強くて、僕は夜もあまり眠れなくなってしまった。いつもならお通夜に顔を出してご家族と話をするうちに癒されるのだが、僕はこの週末大阪に出張していて、葬儀に出られなかったからかもしれない。なんだか、まだ主治医が終わっていない気がしてしまう。どこかで気持ちを整理しなきゃいけないことはわかっている。近いうちにお線香をあげに行こうと思う。
N君。きみが大切な人に伝えたかったこと、僕が確かに伝えましたよ。
どうか安心して、ご家族を見守ってください。